在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、三重県日韓親善協会、紀州鉱山の真実を明らかにする会が呼びかけ団体となり、三重県津市で発会式が開かれました。
そのとき、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、これから数か月みんなで検討して決定することを前提として提起した、碑文字と碑文の案文は、つぎのとおりです。
■碑文字(案)
追悼
金仁元 南而福 金鍾云 ○應龍 ○光相
千炳台 梁四滿 ○炳南 崔俊石 金大成
゙春木 安コ勲 ○永植 李碧收 ○正元
趙龍凡 ○天植 ○國春 ○泰コ 薛秉金
梁煕生 ○鐘連 金萬壽 金學録 梁泰承
安謹奉 南 護 安陵晟 吉興進 鄭誠○
○恢姫 ○泰年
■碑文字(案)
1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山で働いていた朝鮮人がいました。
紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍によって強制連行された人たちでした。田独鉱山で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
紀州鉱山で、朝鮮人労働者130人は、1941年5月、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、日本軍と戦って「捕虜」とされた人を含む多くのフィリピン人を強制的に働かせました。
わたしたちは、田独鉱山で死んだ人びとを想いつつ、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさんを追悼する碑を建立しました。
この碑を基点として、わたしたちは、多くの人びとと共に、日本政府・日本軍・日本企業がアジア太平洋の各地でおおくの人の命を奪った歴史的事実を明らかにし、その責任を追究していきます。
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
2009年 月 日
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