新聞報道
『朝日新聞』(三重版) 2008年9月1日
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追悼碑建立 やっと一歩
◆◆紀州鉱山朝鮮人 戦時「1000人徴・雇用」◆◆
在日本大韓民国民団三重本部と在日本朝鮮人総連合会三重本部などが呼びかけ、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」が31日に発足した。すでに場所の提供などについて熊野市と協議を続けており、会では09年春の建立を目指す。「紀州鉱山の真実を明らかにする会」事務局の金静美さん(59)は「熊野市は歴史的な責任もふまえて土地を提供すべきではないか」と話した。(月舘彩子)
発会式には約20人が集まり、石碑に刻む碑文案を検討するなどした。石碑には、紀州鉱山の歴史的な背景説明する「碑文」と、亡くなった朝鮮人で、名前の分かる人の本名を刻むことを確認。建立場所としては熊野市紀和町板屋の「鉱山資料館」前を希望している。
紀州鉱山には40年から敗戦の45年まで、朝鮮人約1千人が「徴用・雇用」されていたとされる。同会の調査で、1946年に当時の県内務部長が厚生省勤労局に提出した「朝鮮人労働者に関する調査」や、石原産業の社史、同地区の寺院の遺骨調査などから32人の朝鮮人が亡くなっていたことが分かっている。
朝鮮人の強制労働の実態については、鉱山を経営していた石原産業の社史や紀和町史でもほとんど触れられていない。しかし、同鉱山で働いていた英軍捕虜のうち、亡くなった16人は英軍捕虜戦没者墓地に埋葬され、史跡外人墓地として熊野市が文化財に指定している。
そのため同会では、98年から紀和町(現・熊野市)に追悼碑の建立を要望してきたが、受け入れられないまま10年が過ぎた。一方、当時を知る労働者の平均年齢は90歳以上になった。96〜98年に明らかにする会が調査をした際、15人に話を聞くことができたが、今年3月の調査で会うことができたのは2人。こうした事実があったことを記憶にとどめる必要がある、として追悼碑建立を決めたという。
同会では、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は少なくとも50人以上いるとみている。今後は、行政資料や埋葬許可書などから、人数や名前を特定する作業を続けるという。
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