紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2008年3月9日、
紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人のはじめての追悼集会を行いました。
 三重県南部の熊野市紀和町の紀州鉱山(1978年閉山)で、アジア太平洋戦争中に1000人を越える朝鮮人が強制連行され強制労働させられていました。
 紀和町の慈雲寺本堂に置かれている朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』などによると、紀州鉱山で30人余りの朝鮮人が亡くなっています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月の会結成前から、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を訪ね、存命の方からお話しを聞かせていただいていました。そして、紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働の事実をおおくのみなさんとともに明らかにしていくとともに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するための何かをしたいと考えてきました。
 ようやくことし3月9日に、紀州鉱山ではじめての追悼集会をおこなうことができました。在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、在日本大韓民国民団三重県地方本部、申載三さん(在日本大韓民国民団三重県地方本部伊賀支部長・伊賀コリアン協議会会長・伊賀市外国人住民協議会会長)、三重県歴史教育者協議会が後援してくれました。

   集会の前、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員2人が韓国に行き、紀州鉱山に強制連行された人たちの消息をたずねました。1996年から1998年にかけて江原道と慶尚北道でわたしたちは、紀州鉱山に強制連行され故郷にもどることのできた人たち15人に会いました。しかし、おおくの方がその後亡くなられており、こんど会うことができたのは、平昌郡珍富面に住む尹東顕さんと龍坪面に住む金★燮さんだけでした。

 紀州鉱山選鉱所跡前の広場でおこなった3月9日の屋外追悼集会では、
  「朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、
   亡くなった人たち。
   家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった幼い子たち。
   わたしたちは、
   生きて故郷に帰ることができなかったみなさんを想い、
   なぜ、みなさんが、
   ここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、
   その歴史的責任を追究していきます」
と朝鮮語で書かれた追悼のことばが読まれ燃やされたあと、32人の犠牲者一人ひとりの名が朝鮮語で読みあげられるなか、その名を書いた紙が参加者一人ひとりによって燃やされました。
 紀和コミュニティセンターでの屋内集会では、10年〜12年ぶりに江原道麟蹄・平昌や慶尚北道安東を訪れたときのことを報告するドキュメンタリー『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で』上映後、30名あまりの参加者全員が、それぞれの思いを語りました。韓国政府機関である日帝強占下強制動員被害真相究明委員会の全基浩委員長からは、追悼のことばが寄せられました。

 追悼集会前日の8日午後と追悼集会当日の9日午前に、「現地調査」をおこない、朝鮮人労働者の墓石といわれている石が置かれている共同墓地、惣房・湯の口・板屋などの坑口跡、朝鮮人労働者の宿所跡、朝鮮人の遺骨が残されている本龍寺、朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』がある慈雲寺、鉱山資料館、紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」などに行くとともに、惣房と板屋で当時のことを知る人に話を聞かせてもらいました。板屋に住む大畑孝千穂さんは、朝鮮人の骨が埋められていた場所にわたしたちを案内してくれました。
 このはじめての追悼集会の日は、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する碑の建設準備を始める日となりました。

キム チョンミ
追悼のことばを燃やす
追悼集会参加者


追悼集会を報道する新聞記事

毎日新聞

伊勢新聞

紀南新聞

熊野新聞広告

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