紀州鉱山の真実を明らかにする会

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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人
 ■『紀州鉱山1946年報告書』

 紀州鉱山で命をおとした朝鮮人にかんしては、明らかになっていないことがおおい。
 1946年9月に石原産業は、紀州鉱山で働かせて朝鮮人労働者にかんする報告書を三重県内務部に提出した(ここでは「紀州鉱山1946年報告書」とする)。
 この報告書では、1942年から「8・14」までに紀州鉱山に「徴用・雇傭」された朝鮮人は、のべ875人で、そのうち282人が「逃亡」したとされている。
 この報告書には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれているが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされている。この「官斡旋」とは、1942年2月の日本政府閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことである。
 この報告書のはじめの部分には、1942年以後の紀州鉱山での朝鮮人労働者の「死亡者数」は10人と書かれているが、名簿部分に記されているのは、「玉川光相」氏(1944年3月7日「業務上死亡」)、「海山応龍」氏(1945年2月20日「病死」)、南而福氏(1945年5月3日「病死」)、「金本仁元」氏(1945年6月1日「公傷死」)、「金山鍾云」氏(「病死」死亡日記載なし)の5人だけである。

■『従業物故者 忌辰録』

 石原産業が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在調)という「会社創業以来の物故者」の名簿がある。ここでは、「殉職者」「戦没者」「一般病没者その他」にわけられ、1269人の名前と死亡年月日が記載されている。
 「殉職者」の部分に、梁四満氏(1938年6月27日「殉職」)、安謹奉氏(1940年10月17日「殉職」)、崔俊石氏(1940年12月31日「殉職」)の名がある。
 「戦歿者」の部分に、趙龍凡氏(1942年11月16日「戦歿」)、曽春木氏(1942年11月24日「戦歿」)の名がある。
 「病没関係その他未詳分」の部分に、薜乗金氏(1936年5月15日「病没」)、梁煕生氏(1940年6月1日「病没」)、千炳台氏(1944年8月2日「病没」)、南而福氏(1945年5月3日「病没」)の名がある。
 その他に創氏改名させられていた朝鮮人労働者と思われる「安田徳勲」氏(1944年8月6日「殉職」)、「玉川鐘連」氏(1942年8月8日「病没」)らの名がある。
 この『従業物故者 忌辰録』に記されている死者のうち朝鮮人と推定・断定できる人は、25人である。推定というのは、「創氏改名」後の名前で記載されている人がいるからである。

■『紀州鉱業所物故者霊名』

 紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に『紀州鉱業所物故者霊名』が入れられている。ここには、紀州鉱山で死んだ人たち423人の名が記されている(最終記載日は1978年6月16日)。そのうち朝鮮人と推定・断定できる人は、12人である。
 『紀州鉱山1946年報告書』の5人のうち3人は、『従業物故者 忌辰録』、『紀州鉱業所物故者霊名』にも名前が記載されている。『紀州鉱業所物故者霊名』の12人は、全員が『従業物故者 忌辰録』にも記されている。
■本龍寺に残されている遺骨

 紀和町和気の本龍寺には、木箱に入れられ白い布に包まれた「無縁」の数十体の遺骨が、本堂に置かれてあった。木箱を包んでいる布には、名前が書かれていた。朝鮮人だと考えられる遺骨は、5体であった。この「無縁」の遺骨はすべて、1999年10月2日に、庭に新しく作られた納骨堂に合葬された。
 朝鮮人と考えられる5人のうち、2人は、3歳と8歳の幼児である。紀州鉱山には、強制連行された朝鮮人のほかにも、土木工事などで朝鮮人が働いていた。地元の人の話によると、家族連れの朝鮮人がおり、子どもは小学校に通っていたという。

■死者の人数と名前

 『紀州鉱山1946年報告書』、『従業物故者 忌辰録』、『紀州鉱業所物故者霊名』に記された死者の重複を整理し、本龍寺に置かれている人を加えた死者は32人である。
 その名前は、つぎのとおりだが、本名がわからない人が多い(○印は、判読不能)。このほかにも紀州鉱山で命を失った朝鮮人がいたと思われる。
 金本仁元 南而福 金山鍾云 海山應竜 玉川光相 千炳台
 梁四満  安謹奉 大内炳南 崔俊石 金山大成 ゙春木
 安田徳勲 玉岡永植  阿李氏碧収 松本正元 趙龍凡
 松本天植 河元国春 瀧山泰徳  薛秉金 梁煕生 玉川鐘連
 金本万壽 金岡学録 梁井泰承 南護  安陵晟 吉興進
 鄭誠○ 松本恢姫 大山泰年

■千炳台氏

 『紀州鉱山1946年報告書』では、1917年生まれ、慶尚北道安東郡臥龍面の千炳台氏は、1944年5月7日に紀州鉱山に来て、3か月後の1944年8月2日に「逃亡」したとされている。だが、千炳台氏は、『従業物故者 忌辰録』では、同じ日に、「病没」したとされている。
 1998年8月、わたしたちは、千炳台氏の消息を知るために、韓国慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所を訪問した。そこで閲覧した戸籍簿には、千炳台氏は、1944年8月1日に当時の上川村(旧、紀和町和気。現、熊野市)で死亡し、8月2日に死亡届けが出され、上川村長が受理したことが記されていた(『会報』28号、35号を見てください)。
 千炳台氏の名は、『紀州鉱業所物故者霊名』には、「子炳台」と書かれている)。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年11月16日に当時紀和町の助役と教育長に口頭で、2003年7月21日に紀和町役場で再度口頭で、同年11月22日に文書で、公文書公開条例に基づき、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求めた。
 また、2006年1月16日に、熊野市に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人の埋火葬許認可書の閲覧を求めたが、熊野市は拒否しつづけている。
 逃亡した朝鮮人が、紀州鉱山のはずれを流れる熊野川を泳いで渡ろうとして、溺れたという話を聞いた。朝鮮人死者の数は、まだまだ、明らかではない。
 『紀州鉱山一九四六年報告書』では、「金山鍾云」氏の本籍地は江原道麟蹄郡麒麟面とされている。1997年5月に麟蹄郡で聞きとりをしたさい、「金山鍾云」氏の本名は金鍾云氏で、1945年春に獄死したという証言を麟蹄邑に住む金石煥氏から聞いた。『紀州鉱山一九四六年報告書』に「金山鍾云」氏が亡くなった日が記載されていないのはそのためではないか。
 「海山応龍」氏の本籍地は、江原道平昌郡平昌面とされている。1997年8月はじめに平昌郡で「海山応龍」氏のことを尋ね歩いたが、遺族にも知人にも出会うことができなかった。

キム チョンミ
入鹿の雲慈寺
「紀州鑛業所物故者諸精霊」
和気の本龍寺
この中に無縁の遺骨がある
幼い子
無縁とされた遺骨
このように置かれている
英国人捕虜の名前は
明らかにされ碑もある
紀州鉱山の真実を明らかにする会