紀州鉱山の真実を明らかにする会          裁判闘争



2011年9月29日(木)、
熊野市を被告とする第2回目の裁判(口頭弁論)と、
三重県を被告とする第2回目の裁判(口頭弁論)が開かれました。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

突然、裁判終結


 きょう(9月29日)、熊野市を被告とする2回目の裁判(口頭弁論)が午前11時から、三重県を被告とする2回目の裁判(口頭弁論)が午前11時半から開かれました。
 熊野市を被告とする口頭弁論開始9分後、裁判長が、「この時点で裁判所の法的な判断をします。弁論を集結し、判決を12月1日午前11時に言いわたします」と言って退廷しました。
 三重県を被告とする口頭弁論のときにも、同様のことを言い、傍聴席からの、「でたらめな裁判だ。まじめにやれ」という怒りの声に背をむけ、逃げるように退廷していきました。

                                   佐藤正人

                                 


突然の弁論終結にさいして


  これはある意味で予想されていたことのようにも思えます。
 第1回の裁判の最後に、裁判長は、三重県と熊野市に土地評価額の算定基準を提出するように、と言って退廷しました、
 これを聴いたとき、ぼくはこの裁判長は公共性や歴史認識の問題に法廷で踏み込んで判断する勇気のある裁判長ではない、と言うことを強く感じました。
 法廷で公共性や行政の歴史的責任を議論していけば、裁判長はそれについて何らかの自分の判断を下さなければなりません。この裁判長はその審議に踏み込んで判断を下す以前に、そのような問題をはじめから回避する姿勢を取ろうとしている、ということをその時に強く感じました。
 地方税の課税問題を公共性と言う判断基準にしたがって妥当なのかどうかを争うのが裁判の本筋であるのに、その争点をはじめから回避する。その意味では、熊野市や三重県と裁判長の姿勢はまったく変わりありません。
 この問題が裁判の問題ではなく、社会闘争の問題だと言うことは、わたしたちははじめからわかっていたと思います。
 わたしたちは、追悼碑の土地に地方税を課するという行為が国家と行政の歴史的に責任にふたをして、侵略戦争の犠牲者を冒涜するものであるという感覚から、ほとんど条件反射的に提訴に踏み切りました。
 裁判の見通しがどうのうこうのではなく、そうすることが当然だという共通感覚の下に提訴に踏み切ったのだと思います。
 このわたしたちに共有されている歴史感覚と歴史的責任意識が、日本の社会や裁判所のそれといかに隔絶したものであるかということをきのうの裁判は物語っていると思います。
 それでも、わたしたちは裁判で、公共性や歴史認識を説得的に、粘り強く提言していけば、裁判所は必ず理解するはずだという期待があったのだと思います。
 公共性や歴史認識は社会がつくりあげていくものであり、わたしたちは裁判所と言う場を利用して、そのようなわたしたちの公共性と歴史認識を社会に訴えていくチャンスにしようと思ったのだと思います。
 しかし、裁判所はそのようなわたしたちの期待をはじめからシャットアウトする対応に出ました。
 公共性や歴史認識は社会のなかでつくりあげられていくものであり、社会の中で共有されてはじめて力になるものだと思います。
 その社会に共有された歴史認識が初めて裁判で行政や裁判長を突き動かす力になる。
 わたしたちは、ある意味でそれを承知の上で、裁判所でわたしたちの公共性を社会のものにしていこうとしたのですが、裁判長には、この問題をうけとめる力がなく、突然の弁論終結という裁判官にとっては最も安易な方法で根本問題を回避しました。
 でも、そのことは今回の提訴が無意味だったということを意味するのではありません。
 裁判の記録は残りますし、わたしたちが共有する公共性の理念と歴史認識は文言として裁判記録に残ります。われわれがこの世からいなくなった後になって、この記録を掘り起こす人たちが現れるかもしれません。     

                                      斉藤日出治



紀州鉱山の真実を明らかにする会