2011年8月4日、
熊野市を被告とする第1回目の裁判(口頭弁論)と、
三重県を被告とする第1回目の裁判(口頭弁論)が開かれました。
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課税に抗議する第1回裁判 報告1
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼の場への土地税課税に抗議し糾弾する民衆運動の一環として紀州鉱山の真実を明らかにする会が提訴した訴訟の最初の裁判がきょう(8月4日)におこなわれました。
熊野市を被告とする裁判は午前11時に、三重県を被告とする第1回裁判は午前11時半に開廷しました。
熊野市を被告とする裁判で、原告は、訴状の要点を述べたあと、被告熊野市の答弁書にたいする基本的質問をおこないました。
三重県を被告とする第1回裁判は、熊野市を被告とする第1回裁判に続いて、8月4日午前11時半に開廷しました。
三重県を被告とする裁判で、原告は、訴状の要点を述べたあと、被告三重県の答弁書にたいする基本的質問をおこないました。
質問を文書化した原告のそれぞれの「準備書面(1)求釈明の申し立て」の全文は一番下にあります。
課税に抗議する第1回裁判 報告2
以下は、『伊勢新聞』2011年8月5日号に掲載された、8月4日の裁判にかんする記事の全文です(原文は「元号」使用)。
この記事は、被告の答弁書には触れていますが、それに対する原告の基本的な批判、それに対する被告の悪質な応答拒否を報道していません。また、当日、津地方裁判所前での「在特会」の排外主義行動にも触れていません。
佐藤正人
■旧紀州鉱山の追悼碑・課税訴訟 県と市「適法」争う姿勢 津地裁
熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に死去した朝鮮人労働者の追悼碑をめぐり、建設地に不動産取得税と固定資産税が課せられたのは不当として、土地所有者の市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」(金靜美事務局長)の五人が県と市を相手取り、課税の取り消しを求めた訴訟の第一回口頭弁論が四日、津地裁(戸田彰子裁判長)であり、県と市は請求棄却を求めて争う姿勢を示した。
答弁書で、不動産取得税を課した県は「原告らの土地取得は、地方税法の非課税事由のいずれにも該当せず、課税は適法」とし、固定資産税を課した市は「公の利益のために固定資産が使用されるのではなく、市条例の減免規定には該当しない」と述べた。
訴状によると、同会は二〇〇九年七月、同町板屋の土地約二百十四平方メートルを取得し、碑を建立。県から同年十一月に不動産取得税二万六千三百円、市から昨年五月に固定資産税一万六千二百円を課税されたのに対し、碑の「公共性」を主張して税の減免を求めたが、いずれも拒否されたとしている。 (廣瀬修平)
課税に抗議する第1回裁判
(紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が補正しあってまとめた報告)
■8月4日の報告 1
10時ころ、排外日本ナショナリストグループ「在特会」のメンバーと思われる者10数人が車2台で津地方裁判所前に来ました。かのじょ・かれらは、裁判所正門前の路上で、ハンドマイクで叫びだしました。
「在特会」がののしることばは、「強制連行を言うんだったら一次資料を見せろ」、「税金はらわんのやったら、朝鮮帰れ」、「おまえら、アホ」、その他、いろいろ。
背中にエトロフ、クナシリなどがはいった地図がプリントされたシャツを着ている者、左胸に「攘夷」という文字が入ったシャツを着ている者がいました。ゆかたを着ている者もいました。
ひとりが、ビデオカメラで、裁判所に入ろうとする人を撮影しだしました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、正門に行き、ビデオカメラとカメラで、かれらの動きを撮影しました。会員の1人が、かのじょ・かれらに囲まれつつ、暴言に反撃しました。
反撃していた紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、裁判所正門から玄関のほうに戻ると、どなりながら「在特会」の何人かが、ついてきました。
他の会員、傍聴にきてくれた人たち、裁判所職員、そのほか不明の数人が、間に入りました。不明の人は、だれかと聞くと、警察から来た、と言っていました。警察から来たと思われる人間は5人以上でした。
裁判に参加しにきた原告の子ども2人(1人は1歳になったばかりの女子、1人は4歳の男子)は、まぢかでその光景を見ていましたが、とくに怖がることもなく、ちょっと心配そうにしていました。
わたしたちが玄関にいるとかれらはいつまでも興奮するから、中に入ってください、と裁判所と警察の関係者が言いましたが、わたしたちは、傍聴者が来ると「在特会」を見て驚くので、知った顔が見えるほうがいいからここにいると、玄関にしばらくいました。
10時25分に、熊野市を被告とする裁判の傍聴券(傍聴席23席)が配布され、10時40分から三重県を被告とする裁判の傍聴券が配布されました。「在特会」のメンバー10数人は裁判所正門前の路上をうろつきながら、ハンドマイクで叫んでいましたが、法廷には入ろうとしませんでした。
■8月4日の報告 2
11時に、津地方裁判所302号法廷で熊野市を被告とする裁判が始まりました。
裁判官は、戸田彰子裁判官,福渡裕貴裁判官,坂川波奈子裁判官の3人でした。
被告席には、熊野市の弁護士1人(津市の倉田巖圓法律事務所の倉田巖圓弁護士)と熊野市の職員2人(星山正文氏、佐野恵史氏)が座っていました。
原告の1歳と4歳の2人のおさな子について「原告席に一緒に座っていいか」という問いに、裁判所の職員はいいと言ったにもかかわらず、書記官が「裁判長と相談してきます」と言って戻ってきたら、法廷に入ってから、こどもたちは原告席から傍聴席へと追いやられました。
傍聴席には、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員と支援者が10人、ほかに熊野市と三重県の職員と思われる人が9人ほど、マスメディア用傍聴席には、NHK、三重テレビ、中京テレビ、中日新聞、伊勢新聞、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、産経新聞の記者などが座っていました。
裁判官が法廷に入ってきたとき、原告は全員起立しませんでした。
戸田彰子裁判長が、裁判の進行について説明したあと、原告の一人が、今回の訴訟提起の目的、特に公共性を否定する熊野市の誤りを他の自治体の公共性を認めている例を挙げて主張しました。さらに、英国人墓地の「慰霊式」には公共性を認めて公金を支出しながら、朝鮮人の追悼碑建立については公共性を認めいことの不公平性を強調しました。
この陳述に続いて原告のもう一人が、準備書面(1)(求釈明の申し立て)の3点を説明し、被告熊野市に答弁を求めました。
裁判長の「被告はどうしますか」という言葉に、被告熊野市の弁護士は、
「求釈明に答える気はない。そのことを今日の法定の場で、口頭で述べておきます」
と答えました。
原告が、被告熊野市が答弁書の「乙1号証」として提出している『朝日新聞』記事の日付について、「まちがいないか」と尋ねると、被告熊野市の弁護士は、「まちがいない」と返答しました。
かさねて原告が、「1947年7月13日の『朝日新聞』にこのような記事はなかった。被告はどこで見たか」 と尋ねると、被告熊野市は、「引用されたものから見た。まちがいない」と返答しました。
さらに、原告が、「原紙は見ていないのか」と訊ねると、被告熊野市は、「見ていない」といい、
「わたしが見た資料に基づいたものだから問題はない。
ないということをどうして調べたのか?」
と聞いてきました。
原告が、親切にも「国立国会図書館で調べた」と説明すると、被告熊野市は、さらに、「それは原本か?」と聞いてきました。
被告が、「原本だ」と答えると、被告熊野市が、「それは何版か」と質問してきたので、原告は、「それに答える必要はない」と言って、それ以上は教えてやりませんでした。
その後、被告熊野市が、「こんなことは関係がない。答える必要はない」というようなことをいうので、原告は、「被告が朝鮮人の強制連行にかかわって、証拠として出してきている新聞記事なので、関係がある」 と発言し、
「わたしたちも準備書面を用意してきて求釈明を提出しているのであり、証拠能力があるかないかの重要なことであるのでキチット書面で回答を求める」
と裁判長に言いました。
裁判長は「裁判記録に残りますから」と言って、明確に被告熊野市に、誤っている乙1号証の日付の訂正・正確な日付の提示を求めようとはしませんでした。
被告熊野市の答弁書の「乙1号証」は、被告熊野市の主張の根拠が極端に不正確なものであることを誰にも解りやすく示しています。
■8月4日の報告 3
次に、原告は、「強制連行」と「徴用」は同義ではないことを指摘し、被告熊野市に釈明を求めました。
しかし、被告熊野市は全く回答しないという姿勢をとり続けました。
被告熊野市は、わたしたちの訴状にたいする答弁書のなかで、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である」、「追悼される35名との差26名」と書いていることについて、原告は、「10名であった」と「10名であった筈」は違う。なぜ「筈とは何を意味するのか、説明をしてもらいたい」と追及しました。
これにたいして被告熊野市は、原告が出した書証「甲1の2石原産業の報告書」をとりだし、「ここに10名と記載されている」と甲号書証綴りを裁判官に見せに行き、「だから10名の筈だ。筈は、must beである。だから、must beは……で、must beとは……」と「must be」をくりかえし、「こちらは原告が出した証拠甲1号の2と、甲6号の1にもとづいて述べているのだ」と、原告に責任をおしつけようとしてきました。
甲6号の1は、除幕集会資料です。被告熊野市は、その資料の、35人の名前が記されている頁を提示しました。被告熊野市は、35人を36人と数えまちがい、36人マイナス10人で、26人としたようです。原告が、10人と26人の氏名を明らかにするよう求めたのに対して、被告熊野市はこれにも「その必要はない」といってこたえようとしませんでした。
原告は、こちらは「準備書面1」を用意して求釈明しているのだから、被告熊野市もこれに書面で答えるべきだ」と主張しましたが、被告熊野市は、「過去の事実について、深入りする必要はないと考えている」、「公共性の中身について深入りする必要は認めない」といいました。
裁判長は、肝心なことに答えようとしない被告熊野市の態度を黙認し、「今日は双方が議論をたたかわせる場ではないので」といいました。
今日の口頭弁論での求釈明にたいして書面を出さないという被告熊野市の姿勢を裁判官は追認したかたちとなりました。
被告熊野市の弁護士がわたしたちの書証甲第6号証の1(=2010年3月28日の除幕集会で35人の紀州鉱山で亡くなった名前を書いた表紙)を裁判長に見せたので、裁判長が、「原本とあるが…」と、原告に原本を見せるように求め、裁判官の一人が、原告の席に来て、甲第6号証の1が原本であることを確認し、甲号証綴りを裁判長のところに持っていって見せました。
また、被告熊野市は証拠説明書を追加してきました。
そこでも、
「朝日新聞(写し) 1947年7月13日(原文「元号」使用) 作成者 朝日新聞社 立証趣旨「国民徴用令は朝鮮への適用は差し控えていて1944年9月(原文「元号」使用)になって実施されたこと」
と1947年7月13日の『朝日新聞』には存在しない記事が証拠として示されていました。
最後に、裁判長は、被告熊野市には、「9月15日までに課税標準額、延滞金の率、を示す書類を出すように」、わたしたちにたいしては、「原告からの準備書面は9月15日までに出すように」と文書の提出期限を提示したあと、次回の裁判の日時を、9月29日11時に指定し、閉廷しました。
■8月4日の報告 4
11時半から三重県を被告とする裁判が、その前の熊野市を被告とする裁判と同じ法廷で、同じ3人の裁判官で始まりました。
答弁書に署名していた被告三重県の弁護士は6人でしたが、この日、被告席に座った弁護士は2人(降旗道男氏、白山雄一郎氏)でした。被告席には、ほかに三重県の職員3人(小西広晃氏、紀平洋氏、板倉秀昭氏)が座っていました。
裁判官入廷時に原告は全員起立しませんでした。
はじめに、裁判長が裁判の進行について説明しました。
原告は、訴訟提起の目的については、熊野市を被告とする裁判のときの主張と重複するところがあるので、「訴状」についてはその主旨説明を省略し、準備書面(1)(求釈明の申し立て)に挙げた、つぎの5項目について、くわしく述べて、被告に説明を求めました。
@ 歴史的事実について「不知」のまま、いい加減に「公共性」の判断をして「審査請求を棄却にした」のか。
A 被告は「「追悼碑の建立に公共性が無い」と公言したことはない」とするが、それは「朝鮮人の追悼碑の建立」に公共性があると判断しているという意味か。
B「朝鮮人の追悼碑には税を減免するほどの公共性が認められない」とする判断の、「減免するほどの公共性」とは何か。
C 本来法的拘束力のある「県税施行規則」を無視して、法的拘束力のない「部長通知」を優先させ、「部長通知」に法的拘束力があるように扱っているが、なぜそのような扱いをするのか
D 「根拠法令を自分で探して書面にする能力のあるものだけに減免申請をする資格がある」というのが三重県の姿勢なのか。
これにたいして、裁判長は、被告に「どうしますか」と聞きました。
被告三重県は、
「過ぎ去った過去のことは、今回の事案と関係がない。書面で答える必要はないと考える。原告は主張はしてもいいと思うが、釈明に答える予定はない」
と答えました。
それにたいして原告は、
「三重県の歪んだ姿勢のあらわれである。少なくとも他の村、町、市、県では、植民地支配にたいする謝罪と反省をこめて公園や市の墓地を提供している。
三重県だけが、過去のことは知らなくても良いと言って済まされることではない。在日朝鮮人にたいする人権侵害は、植民地にたいする責任をとらないままできた今日的な問題である」
と反論しました。それにたいし被告三重県は、なにも応答しませんでした。
このとき、傍聴人の1人が立ち上がると、右陪席の裁判官が、すぐに、「立たないで」といいました。
被告三重県は、三重県県税条例施行規則の条文を書証として追加提出してきました。
最後に、裁判長は、「税額の根拠を示してください。延滞金の根拠も示してください」と被告三重県に求め、「9月15日までに課税標準額を示す書類を出すように」と指示しました。
原告には、「準備書面は9月15日までに出すように」と文書の提出期限を指示しました。
そして、裁判長は、次回の裁判は、9月29日11時30分から当法廷で開くと一方的に期日を指定し、双方の都合を一切聞くことなく、裁判官3人が退席し、三重県を被告とするさいしょの裁判は終わりました。
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